奪う人、与える人

この世界には、苦しさや寂しさのあまり人にぶら下がって、おこぼれをもらおうとする人が居る。

時にはその欠乏感が強すぎて、相手を食い尽くすまで奪おうとする人も居る。

しかもそれは、肝心の奪う本人には自覚も理解も出来ない。

逆に言えば、理解するような余裕のある状態であるということは、欠乏感や自己否定感にまみれていないということだ。だから人におこぼれをもらったり、人から奪う必要などない。

また逆に、人に与えることでこれらの欠乏感を埋めようとする人間も居る。

かくいうわたしも、以前はこういう人間だったと自覚している。

いや、まだどこかにその成分を感じる。自分の中に。かけらのような記憶として。

欠乏感は、愛で自己が満たされることでしか消し去ることは出来ない。そしてそれは、自分以外の誰かによってもたらされはしない。

パートナーを探そうとする時、お互いのこの欠乏感を凸と凹とで補おうとすることがあるが、これは基本的には解決の方法にはならない。

むしろ、この方法で足りない部分を埋めようとする時、人はかえって自分の欠損を強く自覚するものだ。相手が居なければわたしという人間は安定した形で存在し得ない、と。

ガチャリとハマった凸と凹が、離れたとたんに成立しないのは当然なのだ。

そしてこれは、お互いの凸と凹が存在しないと初めから成立しない関係だ。

しかし本来、人間はその個人があるがままの状態で完成しており、完璧な存在だ。

まるで自分にも、他の人間にもいびつに見える形だとしても、それが本来、世界があなたに与えた本当の自分の姿だ。そこに、何ひとつ欠損はない。

もし手足が、それ以外のあらゆるものが無かったとしても。

人間は、あるがままの姿で完璧だ。

もしあなたが、自分自身を足りないと感じ、誰かから奪おうとしたり、誰かを支えることで自分を保とうとするのなら、それはあなたを本当には幸せにはしない。

どんな形であれ、今あなたがそこにそうして、苦しみながらでも生きていることそのものが、あなたの存在価値であり、あなたがどれだけ素晴らしいかの証明なのだ。

苦しみさえも、命がなければうまれない。細くもあなたが灯し続けている灯火。命のまたたき。

誰からも奪わなくて良い。誰にも与えたり、支えたりしなくて良い。

他人を見ることで自分を真正面から見ることを避けるのではなく、人の欠損を見つめることではなく、あなた自身の、あなたそのものの在り方と、あなたの命の美しさを祝福しよう。それがあなたにとってどんなに醜く感じたとしても、いびつだけれど、だからこそそこがチャーミングで美しい。

そう、思いませんか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.