善悪の判定

人は得てして、人や物事をカテゴライズしたがるものだ。

もっと言うなら、自分の身の回りに起こった全ての事を何らかの形で判定する。

その出来事や人が、世の中的には是か非か、自分にとっては良いことか悪いことか、その人が善人か悪人か、そして果ては、…というかこれらを判断するよりもずっと以前に、我々はこう考えていたりする。

今の私のこの感情は、抱いて良いものなのか、悪いものなのか。

いつもずっと、意識的に、または無意識的に全てのことをジャッジメントし続けている。

ああ、どうしてわたしたちはふと心の中に芽生えた自分の気持や感情を、いちいち良いことか悪いことかと判断してしまうのだろう。

悪気がないとはいえ、冗談のつもりでも自分の容姿を蔑むようなからかいを受けたり、さしたる理由もなく他人から怒鳴られたりしたら、驚き、苛立ち、モヤモヤする。悲しくなりもし、腹も立つ。

そんなことは、誰だって当たり前なのだ。人間なのだから。

「あの人は悪気がないのだから許してやって。」

「理解を示してあげられないのは大人げない。」

こういうことを、さも当たり前のように言う人がいる。

こういう人は大抵の場合、怒りや悲しみといった感情を必要以上に忌み嫌い、「良くないもの」と断じて、本当はそれを内包しながらも押し殺して見ないようにしているだけである。

あるがままに受け止めた上ですべてを理解し、赦す。これは大変な心の修行の末に手に入れられる境地であり、そもそもこんなつまらないことで一喜一憂している自分とは、次元が違うのだ。

理由もなく辱められたり、身体や心の暴力に遭った時に、誰もがこんな風でいられるほど簡単なものではない。もしそうであるなら、お釈迦様だって修行なんかしない。

人が少しでもその様な境地に達することが出来るとしたら、少しづつでも自分の今の段階にあわせた成長をする必要がある。一足飛びに赤ちゃんが会社の重役にはならない。

子供がまだよちよち歩きの頃、こんなことがあった。祖父母が遊ばせてくれていた所、子供がころんでしたたか顔をぶつけた。

もちろん、ものすごく痛かったであろう子供はとたんに火がついたように泣き始めた。

すると祖父母は両側から囲んで一斉に大きな声でこう言った。

「痛くない、痛くない!!泣かない!泣かない!!泣かないよ~~~!!!」

大声で痛くない痛くないと何度も言うのを見ていて、いたたまれなくなった私は、彼らから子供を引き取って「よしよし、うん、痛かったねぇ。見てたよママ。うんうん。痛いね。大丈夫、大丈夫。」と、抱きしめながらあやした。

それまでずっと泣き止むどころか、かえって火がついたように泣き叫んでいた子供は、「ママ、痛かったの」「ここさすって」などと言いながら安心したように泣き止み、落ち着いていった。

その時、ああ、これでは駄目なはずだ、と思った。

わたしたちは、幼い頃から周りの大人に一生懸命に教え込まれる。

「痛いと感じるのはいけないこと」

「痛いと言って泣いたりしてはいけない」

「腹を立てて怒りを表してはいけない」

泣き止ませたい気持ちは分かるが、本人が実際に痛くて「痛い」と言っているのに「痛くない」と他人が否定するのはそもそもはじめからおかしい。痛いと感じたりする心や感情は、本人だけのものだ。

ありのまま、感じるままのその瞬間の自分を、まるごと否定される経験だ。そういうことが積み重なり、抱いた感情や考えを常に頭から否定され続けていくと、いつしか我々には人やものごとを「良い」と「悪い」に分別する癖がしっかりとついてしまう。

わたしたちの人生には、辛いことも、苦しいことも、理不尽なこともずっと存在し続ける。

わたしが毎日にこにこと笑顔で人に接しても、別の国では戦争が起こるし、私が誰かを手助けして喜んでもらえても、別の街ではこころない人間に誰かが殺められたりする。

どんなに自分が聖人のふりをしたところで、自分は聖人ではないし、自分の人生で嫌な人や出来事に出遭わなくなることはない。

我が子が泣いた時、彼が泣き止んだのは、劇的に痛みが引いたからではない。相変わらず痛いけれど、「ああ、痛かったんだ。そうだね」という、辛い経験を他人にありのままに受け止めてもらったことで、その辛さや苦しさが自分の中で少しづつ整理されて行っただけなのだ。

「痛いこともある、辛いこともあるけれど、それでも自分は大丈夫なんだ。」と。

聖人であれ、という人は、自分を買いかぶっている。自分はちょっとやそっとじゃ腹も立てないし、人に悪い感情も持たない。

もちろん、本当にその境地に居る人はいるでしょう。

けれども、その人はこうは言わないだろう。「何の整理もつけられなくても、今すぐその人を心から許しなさい。そして今すぐ立派な大人の態度で素敵に振る舞いなさい。出来なければ良い人間ではない。」とは。

わたしたちは、いつでも一旦、感じた気持ちやモヤモヤを、自分で一切の判断を手放して受け止める必要がある。「ああ、そう感じたのね、うん。わかるよ、そうだよね。」と。

その上でゴミにポイ、と捨てる。怒りやモヤモヤを。

誰かにそれを話す必要などない。素直な心を紙に書き出して、自分で読んで、「うん」と認めてあとはポイだ。紙ごと、ゴミにして捨てる。

それで良い。それだけで、人生の苦しさが少し減る。

わたしはわたしをジャッジしない。

自分をジャッジしなくなれば、自分の身の回りにいる嫌だなぁと思う人も、愚かだと感じる人も、ただその人がそうであることを受け止めることが出来るようになる。葛藤にまみれずに。

どこかで

幸せに生きていて欲しい人がいる。

今彼がどうしているのか、実際に知るつもりはないけれど。

どこかできっと幸せになっていて欲しい。

たとえ何も持っていなくても、たとえ誰もそばに居なくても。

彼は、それだけのことをやったから。

人を作り上げるのは、本当にその人そのものだけではない。

孤独は、けっして不幸ではない。

たったひとりでも、誰にも窓からさす春の光は暖かいし、夏の始まりのしめった土の匂いは胸を弾ませる。一生懸命働いた時の、汗に通る風は清々しいし、ありがとうと言って、ありがとうと返事をされることの小さな喜びは、疲弊した心を和らげる。

そういう、小さな幸せの感じられる心で、今日も生きていて欲しいと思う。

わたしはあの頃、彼の純粋さを素敵だと思いながら、同時に感じる何か得体の知れない気持ち悪さに戸惑っていた。まだ、ほんの子供だったから。

何故こんな良い子に、気持ち悪いと感じてしまうのか。

自分はなんと心根の悪いものを持っているのかと、どこかで自分を責めていた。

いつも、笑顔で優しくしてくれる彼に。

人として好きだったし、今でもその気持はかわらないよ。

彼の知らない側面を知った時、ああ、そうだったのか、と、何かとても腑に落ちた。そして、今考えれば、もっと彼という人を身近に感じられたのだ。不思議に。

わたしはあの頃見ていた、あなたの純粋さを今も見ている。

けれども、そうではない、周りの人間や状況に押し付けられた、苦しみや悲しみや人生の理不尽さに、怒りや哀しみが彼を飲み込んで行ったのだろう。

だから、あの時も、今でも、ずっとかわらず好きで居るよ。あなた自身の部分を。

自分から逃げること無く、ちゃんと向き合って、そしてもう一度生き始めていて欲しい。

わたしと同じように、生きながら、二度目の人生を、どこかでひっそりと歩んでいて欲しい。

今日も春の風が、彼の頬を暖かく包みますように。

苦しみの中に、きっと一条の光がさしていますように。

人間は何度でも生きられる。もう一度、新しい人生を。過去を背負ったままで。

生き直す、のではない。どんな酷いことも、苦しみも、あなたの大事な一部なのだ。それを持っているから、きっと誰よりも人に優しくできる。

あなたのために、祈ります。

奪う人、与える人

この世界には、苦しさや寂しさのあまり人にぶら下がって、おこぼれをもらおうとする人が居る。

時にはその欠乏感が強すぎて、相手を食い尽くすまで奪おうとする人も居る。

しかもそれは、肝心の奪う本人には自覚も理解も出来ない。

逆に言えば、理解するような余裕のある状態であるということは、欠乏感や自己否定感にまみれていないということだ。だから人におこぼれをもらったり、人から奪う必要などない。

また逆に、人に与えることでこれらの欠乏感を埋めようとする人間も居る。

かくいうわたしも、以前はこういう人間だったと自覚している。

いや、まだどこかにその成分を感じる。自分の中に。かけらのような記憶として。

欠乏感は、愛で自己が満たされることでしか消し去ることは出来ない。そしてそれは、自分以外の誰かによってもたらされはしない。

パートナーを探そうとする時、お互いのこの欠乏感を凸と凹とで補おうとすることがあるが、これは基本的には解決の方法にはならない。

むしろ、この方法で足りない部分を埋めようとする時、人はかえって自分の欠損を強く自覚するものだ。相手が居なければわたしという人間は安定した形で存在し得ない、と。

ガチャリとハマった凸と凹が、離れたとたんに成立しないのは当然なのだ。

そしてこれは、お互いの凸と凹が存在しないと初めから成立しない関係だ。

しかし本来、人間はその個人があるがままの状態で完成しており、完璧な存在だ。

まるで自分にも、他の人間にもいびつに見える形だとしても、それが本来、世界があなたに与えた本当の自分の姿だ。そこに、何ひとつ欠損はない。

もし手足が、それ以外のあらゆるものが無かったとしても。

人間は、あるがままの姿で完璧だ。

もしあなたが、自分自身を足りないと感じ、誰かから奪おうとしたり、誰かを支えることで自分を保とうとするのなら、それはあなたを本当には幸せにはしない。

どんな形であれ、今あなたがそこにそうして、苦しみながらでも生きていることそのものが、あなたの存在価値であり、あなたがどれだけ素晴らしいかの証明なのだ。

苦しみさえも、命がなければうまれない。細くもあなたが灯し続けている灯火。命のまたたき。

誰からも奪わなくて良い。誰にも与えたり、支えたりしなくて良い。

他人を見ることで自分を真正面から見ることを避けるのではなく、人の欠損を見つめることではなく、あなた自身の、あなたそのものの在り方と、あなたの命の美しさを祝福しよう。それがあなたにとってどんなに醜く感じたとしても、いびつだけれど、だからこそそこがチャーミングで美しい。

そう、思いませんか。

生きててよかった

息子が7歳の春を迎えた。

息子を抱っこして、向き合いながらくだらない話をふたりでして大笑いした。あはは!あははは!!って。時々ぎゅうっと抱きしめた。

あんまり楽しかったらしく、息子は大笑いしながら、

「あはははは!!!生まれてきて良かった~~~!幸せ~~~~~~!!!!」

と叫んだ。

びっくりして、わたしはまじまじを息子の顔を見た。しあわせ~~~!と笑って尚もいう息子の顔を見ながら、わたしも笑った。笑いながら、うえ~~~~~ん!!!って子供みたいに泣いた。

嬉しくて嬉しくて。

嬉しくて嬉しくて嬉しくて。

涙が溢れて止まらなかった。

「ママ、どうしたの?大丈夫?」

と心配する息子に、大丈夫、あははと笑いながらまた泣いた。

聞くと、息子は生まれてきてからずっと幸せだと。毎日楽しいと言った。学校があんまり好きではなく、つまらないことも面倒なこともあるけれど、それでも毎日幸せで楽しく生きられているらしい。

わたしこそ生きていて良かった。

生きていたら、こんな風に思う日が来るんだ。

思うような愛情を親から受けられずに育ったわたしが、繰り返し繰り返し、家庭の中でいかに自分が価値がなく、そして最低な人間なのかを教えられてきた自分が、こんな言葉を子供から聞ける日が来るなんて、思いも寄らなかった。

わたしにとって、生きるということは、苦しみの連続だった。どこまで歩くと楽になるのだろう。いや、そういう日は来ないのかもしれない。

大人になるにつれて、そう諦めることが成長だと感じるようになっていた。いや、若い時のどん底では、どん底にはそういう感情や何かを考えることもない。ただ、ただ深い暗闇に居た。

床も、天井も、上下左右もない、重力も何もないどす黒い暗闇の中にぽっかりと浮かんでいた、あの頃。

不思議なもので、あの頃の日々は、この暗い心象風景の方が自分のリアルであり、毎日目にする日常の景色はあまり意味をなして居なかったような気がする。

考えてみれば、あの頃は何故こんなにも人生が辛いのか全く分からなかった。

人は、適切に育ってこそ適切な判断能力がつき、自分にとっての幸せや喜びは、そういう積み重ねの中からこそ生み出せるのだ。そうでなければ「幸せに生きる」の意味などわかりようがない。

必死だった。

幸せの積み重ねのない自分に、母と子の暖かな触れ合いの経験のないわたしに、子供など育てられるのか。罵倒された記憶、頬を張られた記憶、人格を否定された記憶ばかりのわたしに。

実際、子育てはフラッシュバックの経験なのだ。

「子供を産んで、母の有り難みがわかった」

昔から良く聞く言葉だ。

自分に起きてみて、良く理解した。良くも悪くも、子供を育て始めるとそれにまつわる過去の記憶が呼び起こされ、それまで封をしていた自分に起こったことを感じ取れるようになるのだ。

母親に愛情を込めて、大事にされて育った女性は、子供を育てながら「ああ、母はこんなふうにしてわたしを苦労しながら愛し育ててくれたのだ」と感じる。

逆もしかり。自分が子供を愛して、大事に大事に、必死で育てていると「こうもされなかった」「あんな風にされた」「何故大事な子供にこんな仕打ちが出来るのか」。そうして繰り返し繰り返し、自分のされたことを追体験することになる。

どうしたら良いのかわからず時折過ちをおかし、自分を責め、七転八倒しながら、どうしたら子供に苦しみを継がせるのではなく、愛を手渡し、幸福にしてあげられるのか。

正に苦しみもがきながら、必死で子育てをしてきた。この7年、本当に自分を捧げて子育てをした。自分には、そんな風にしか、子供ひとりを育てられなかった。

だから、ずっと自信なんかなかった。いつもいつも、子を知らぬ間に苦しめていないか、いつか成長した時に気付く足枷をはめていないか、ずっと心配でずっと自分を振り返り続けた。

だから、だから特別に嬉しかった。

嬉しいなんて言葉では言い表せない喜び。

生きていて良かった。

もちろん、これが全てではないだろう。子育てはこれからも続くのだし、ずっと大事にしたい。子供も、自分を振り返ることも。

けれど、ひとまずは幸せだと感じてもらえること。それが一番の目標だったから。

ありがとう。ありがとう。全ての事に感謝したい。

苦しみも、喜びも、全てがあって今日がある。

死なずに生きてて良かった。本当にありがとう。

愛情を乗り越える 親子関係

「毒親」というトピックについて書かれている記事やブログが好きではない。

好きではないのに、目につくと読んでしまう。

そんな人、わたし以外にもいるのではないでしょうか?

実際、自分もそれを中心にブログを書こうと思っていた時期もあり、書いてはみるものの、どこかで素直に書くことを良しとできない自分がいて、やめました。

今日、やっぱりスマホに流れてきた当事者の思いを綴った、母親と実際にあったことを書いた記事を読んで、そしてその記事についているコメントをひとつひとつ読んで思ったことがある。

まず、好きでないのに何故読んでしまうのか。

これはやっぱり、というか当然と言うか、自分が同じ問題を内包していると感じているから。どこかにその問題を持っているから、反応してしまう。無視できない。

そして、何故好きではないのか。

これも、当事者であるからに他ならない。

大なり小なり、この問題を抱えている人は、人生の多くの時間をこれら問題から端を発する苦しみに身を囚われている。だから、無意識にずっとこれらを解決したい、苦しみから逃れたいと思い続けているのです。

だのに…、「毒親」というキーワードで当事者が心の内を綴った文章の多くは、まだその苦しみの真っ只中にいて、誰にも言えない苦しみや、身の回りの人に理解されない気持ちがぎっしりと文章の中に詰め込まれている。

これは、自分自身を振り返ってよくわかる。

逃れられずに苦しむから気持ちを吐露したい。そんなに言い募りたくないのに、心の中がその問題でぎっしりだから、少し話し始めると雪崩のように、堰を切ったようにこれまでされた仕打ち、どんなに苦しかったか、親が否定し続けるわたしの苦しみを、誰かに理解してもらいたい。「ね、酷いよね?こんなに苦しかったの、わたし」という思いを受け止めてもらいたい。いや、そのようにしか出来ない。

でも、実際にその問題で苦しむ人間は、そんな記事を目にすると、未整理で何一つ解決されていない自分の思いを無理に他人を通して見せられているみたいで息苦しさを覚える。「わかる、同情する」という思いもありながら。

本当は誰だって、苦しみと憎悪まみれの人間の感情など受け取りたくない。それが自分のものに見えたなら尚更、こんな風でありたくない、という感情が湧く。

記事のコメントは、書いてあることが本当なら何故そんな思いをしながら幾度も親と関わりを持とうとするのか?という疑問と苛立ちで埋め尽くされていた。

本音を言えば、私も同じように読んでいてイライラした。繰り返し、繰り返し、自分から振り回されに行くよう親の元へ走る娘。その度に更なる嫌がらせや虐待を受け、吐き出す苦しみの元を増やしていた。

けれども、わたしにはわかる。それが何故なのか。

優しく、「人を愛すること」に悩みながらも、真摯に向き合って愛してくれた親御さんのいらっしゃる方には、理解することはきっと難しいだろうと思う。

そうではなかった親と、その元で育てられた子供の親子関係は、その虐待やネグレクト、言葉の暴力、精神的支配、人格の否定。そういった関係そのものが、本人たちにとっての「愛情のやりとり」なのです。

一見、悪人ではない普通の家庭で、貧しくも、暴力も特段無くても、何らかの方法で支配し、コントロールすることを愛だと勘違いしている親の元で育てば、そのやりとりそのものが、子供にとって唯一の、親とのたったひとつの繋がりになるのです。

とても悲しいな、と思う。

以前人に「無償の愛とは親が持つものではない、子供が親に向けるものこそ、無償なのだ。」と聞いたことがある。

なるほど、と納得した。その後、自らも子を産んで、もっとはっきり腹に落ちた。

子供は、無心で只々、親を愛している。親がどんな人間だろうと。たとえ自分を殴り、蔑み、自分の欲や欠落を埋めるために如何なる利己的な考えで自分を利用しようとも。

繰り返される苦しみや痛みの末、その愛が憎しみに変わろうとも、子は親を愛している。欲する、と言った方が良いか。愛の反対は憎しみではない。無関心だから。

ひとつだけ、以前のわたしと同様に苦しむ人に心の底から伝えたい。

あなたを信じて、と。

あなたはあなたの親ではない。血を引き継ぎ、苦しめられた記憶しか残っていなくても、あなたとその親は別人である。

あなたはあなたであり、今こうして数多の苦しみを越えて、今日も生きている。

その自分を褒めてあげましょう。どんな人間があなたを否定したとしても、今日もあなたは生きている。それだけで、なんと強く、素晴らしいことか。

自分を信じる。自分を大事にする。自分を愛し、味方でいる。

親があなたを愛してくれなくても良い。

そっと、もしくは死にものぐるいで必死に、だとしても、離れて良いのです。

いつかもっとあなたが親のことを、他の友人や知人を見るように、ああ彼らも生きているな、という程度に良い意味で無関心でいられる、その時まで。

その時が一生来なくたって、別にいい。

たったひとり、あなたの幸せを心から願い、あなたの明日を信じ、あなたの強さを褒めてあげられる、あなたがここに居る。

それだけで、いつか必ず乗り越えられるよ。

あなたの報われなかった愛情を、あなた自身が慈しめる時が来る。

少なくともわたしは、今もここにこうして生きて、そしてとても幸せです。

信頼を築く パートナーについて

パートナーシップを築くということは、たとえこうなりたい、というイメージがあったとしても、簡単にできあがるものじゃないですよね。

それに多くの場合、自分を理解する前に「こうなりたい」があったとしても、努力して上出来上がったそれが、自分を幸福にしていない、と感じることもあるのではないでしょうか?

本当に自分が欲しているものに気付くことは、そんなに簡単なことではない。

もっと言うなら、人生の前半から、本当の「個」としての自分を理解出来る人など、どれぐらいいるのか。

わたしたちは、見えない多くの関わりや、沢山の状況の中で存在している。大事にしている誰かや、何かがあればあるほど、その人や状況に縛られ、侵食されています。

だから、ある時ふと「これはわたしの幸福なのか?」と疑問が湧いたとき、そんな時は、本当の自分を理解する為に、必死で着て来た服を、一枚ずつ脱いでいく必要があります。

その時に、間違えてはいけないのは、惑った時こそ、「あなたの真実に近づけますよ」と更におかしな服を着せようとする人があなたの目の前に現れることです。

そして、その人はきっとこう言うでしょう。「こうすればあなたは幸せになれる」「こうすることがあなたの幸せなのだ」と。

けれどもけして忘れないで欲しい。あなたの幸福はあなたの中にしかない。どれだけあなたを愛してくれる優しい人でも、あなた自身の幸福は、あなたにしか分からない。

あなたを救うのは、あなたしかいないのです。

いつどんな時も、自分を見つめてください。

誰かの言葉を信じるのではなく、あなたをあなたが、信頼するのです。

それはくれぐれも、自分の感情に流されたり、安易な自分の欲を自分の本当の望みと勘違いすることではなく、全ての人の心の中にいる、神様に聞いてみるのです。

ちゃんと、あなたと、あなたの大事な人を守る、優しい答えを持っている。

必ず、誰の心にも神様はいます。余計な雑音をとっぱらって、あなたの魂が持つ、本当の答えに耳を傾けて。

自分を信じて、ひとりすっくと立つ。

そうした時初めて、やはりひとりですっくと立っている、あなたと同様に自分を愛し、そして同じ方向を見ながら歩み、時折見つめ合って微笑み合い、転びそうになった時には互いに手を差し伸べて支え合える、そういうパートナーに出会います。

幸せを目指さなくても、無理をしなくても、そんな時ふと、

「ああ、今幸福だなぁ」

そんな風に思う瞬間が訪れるでしょう。

新しい日々を生きていく

春になった。

人生の春だ。2度めの春。

赤子の時に1度目の春が始まって、暖かなときもあったけれど、振り返ってみれば秋と冬が長かったと思う。なんとなく。

私は輪廻転生を信じてる。これもなんとなく。

でも、同じ一生の中で人生の春夏秋冬をもう一度味わえるとは思っていなかった。単純に嬉しい。

4月1日になって、ああ、新しい人生がついに始まったな、と思ったけれど、4月1日に投稿するとなんか嘘みたいになるじゃない?エイプリルフールだし。

宣言したことも嘘みたい、と勝手に自分が思いそうだから。笑

それで4月2日。

人は変われる、とかそういう誰か言ってたみたいな話じゃなくて、人生には四季があって、時にはそれが二巡目に来ることもあるんだな、って。私は知らなかったから、だから三巡目がある人もいるのかも知れない。

新しい人生を、胸を張って生きていこうと思う。

自信が無くて、肩を丸めて、縮こまって、でもプライドが高くて自信を持ちたいと思って頑張って、やっぱり空回りしていたあの頃を大事に思いながら。

そんな風に思っている仲間にも、今、正に空回りながら頑張っている人にも。

頑張っているよ。あなたも、わたしも。

人生の新しい春を始めるわたしの日々を、綴っていこうと思います。

みんな、よろしく。