人を癒やすということ

先日、「優しい人」という映像作品を見た。

その作品では、主人公が傷ついた人、苦しむ人と幾人も出会い、優しい人はその度にその人を抱きしめた。彼らの苦しみ、痛みを主人公は次々に受け取って、それらを手放した人々は皆癒やされて行った。

そして、出会う度に人の苦しみを受け取って歩いたその人は、苦しみ、痛みで全身が蝕まれて行く。

作品では最後、苦しむ本人が自宅へ帰ると愛するペットが居て、ペットと戯れることで本人は癒やされ、全員が苦しみから解き放たれ、ハッピーエンドとなる。

その作品には沢山の称賛の言葉が向けられていた。

本当に優しい人はこんな風に人の苦しみを、我が身も顧みず人を癒やしてくれる、本当に素晴らしい、多くの人がこんな風に言っていた。

けれどその沢山の言葉の中に、ぽつんと埋まるようにして「こんな風に人を癒やし続け、日々が苦しく辛い」という言葉を見つけた。

私には、とても良く解ると思った。

自分も、身の回りの人も、世界中の誰も彼も、心から幸せであって欲しいと願う。眼の前に困った人、苦しむ人が居たらとにかく手を差し伸べることしか出来ない、黙って見過ごす事が出来ない。そういう種類の人間が世の中には居る。

「人を助けようとする」行為は、とても苦しいものだ。それが、誰かに寄り添い、その人を幸せにしよう、してあげよう、とするものであるなら。その様に行動をすれば、必ず、動画のように誰かの苦しみ、痛みを吸い取ってしまうことになるからだ。

作品の中では、ペットを抱きしめることで吸い取った苦しみはみるみるうちに癒やされていくが、現実にそれを行った時には、愛し合う存在を抱きしめるだけで苦しみ、痛み、絶望が全て癒やされることなど無い。確かに、初めのうちそれはとても有効だ。けれど、それが積み重なり、痛み苦しみが澱となり、コールタールの様に自分の身の内に固まって行ったら、そんな簡単なことではどうにも出来ないのだ。

本当にそんなことで全てがハッピーになるのなら、世界はもっと幸福で溢れているはずだ。

もしあなたが誰かの苦しみ、痛みを受け取り続けたら、いつか癒やし切れずに残った身の内の澱を、愛する人へぶつけてしまうかも知れない。悲しいけれど、これはそんなに稀なことではない。

もっと言うなら、この世界の苦しみの多くは、この負の連鎖によってもたらされている。

そして、そんな風に人へ当たることなど出来ない、更に心優しい人が居たのなら、その人は、その後も生きていられるかどうか分からない。

作品を称賛する人の多くは、きっと手渡して楽になれる側の人なのだろう。

この世界で、たったひとり、人を救い、人を幸せにすることが出来る人がいる。

それは他の誰でもない。その人本人だけだ。

これには、一切の例外は無い。例え誰かの力を借りて幸福を得る事があったとしても、それは手助けを得た上で、自分自身が自分を救ったに過ぎない。どれだけ人から手助けを受け、全ての環境が整ったとしても、自分が自分を救おうとしない限り、その人が救われることは無い。

逆に言えば、どれだけ逆境にさらされようとも、自分が自分を諦めず、自分を、状況を呪うことなく、自分を信じて生きてさえいれば、必ず道は開かれる。

これは、この世界の理だ。

つまり、自分以外の「人を癒やそう」としたり、「幸せにしよう」としたりすることは本当の意味では全く意味の無いことなのだ。

どれだけポジティブな意味合いであったとしても、どれだけ身近な存在だとしても、他人を変えることは出来ない。

だからと言って、誰にも何も手助け出来ないという事ではない。もし何か人へ手助けするならば、それをあなたがおこなって、何ひとつ自分へ良いリターンがなかったとしても、何も惜しくないと感じることだけをやるのだ。

我々に出来ることは、愛し、信じ、自分に無理のないだけの手助けをし、離れ、見守ることだけだ。

もし誰かの側に居て、知らぬ間に疲弊したり、胸が苦しいと感じるのなら、あなたは自分が出来ない事をやろうとしている。それは自分への過信に他ならないので、潔く離れる必要がある。

「人を救いたい」「人を癒やしたい」と考える人の中には、出来る親切と出来ない親切のグラデーションや境目が分からない人が居る。

この場合、この人は本当に癒やしが必要なのは自分であるのに、自分に向き直れず、自分の代わりに他人を癒やしている。

本当に過不足なく人へ親切にできる人は、自分を幸せに出来ている人だけだ。

他人を癒すのではなく、まず最初に、自分を幸せにする。

自分を幸せに出来たとき、何も考えなくとも、あなたが幸せに生きているだけで、気付かないうちに誰かを癒やすことが出来ているだろう。

他の誰かではなく、まずあなた自身に向き合って、魂の声を聞いてあげて下さい。