愛情を乗り越える 親子関係

「毒親」というトピックについて書かれている記事やブログが好きではない。

好きではないのに、目につくと読んでしまう。

そんな人、わたし以外にもいるのではないでしょうか?

実際、自分もそれを中心にブログを書こうと思っていた時期もあり、書いてはみるものの、どこかで素直に書くことを良しとできない自分がいて、やめました。

今日、やっぱりスマホに流れてきた当事者の思いを綴った、母親と実際にあったことを書いた記事を読んで、そしてその記事についているコメントをひとつひとつ読んで思ったことがある。

まず、好きでないのに何故読んでしまうのか。

これはやっぱり、というか当然と言うか、自分が同じ問題を内包していると感じているから。どこかにその問題を持っているから、反応してしまう。無視できない。

そして、何故好きではないのか。

これも、当事者であるからに他ならない。

大なり小なり、この問題を抱えている人は、人生の多くの時間をこれら問題から端を発する苦しみに身を囚われている。だから、無意識にずっとこれらを解決したい、苦しみから逃れたいと思い続けているのです。

だのに…、「毒親」というキーワードで当事者が心の内を綴った文章の多くは、まだその苦しみの真っ只中にいて、誰にも言えない苦しみや、身の回りの人に理解されない気持ちがぎっしりと文章の中に詰め込まれている。

これは、自分自身を振り返ってよくわかる。

逃れられずに苦しむから気持ちを吐露したい。そんなに言い募りたくないのに、心の中がその問題でぎっしりだから、少し話し始めると雪崩のように、堰を切ったようにこれまでされた仕打ち、どんなに苦しかったか、親が否定し続けるわたしの苦しみを、誰かに理解してもらいたい。「ね、酷いよね?こんなに苦しかったの、わたし」という思いを受け止めてもらいたい。いや、そのようにしか出来ない。

でも、実際にその問題で苦しむ人間は、そんな記事を目にすると、未整理で何一つ解決されていない自分の思いを無理に他人を通して見せられているみたいで息苦しさを覚える。「わかる、同情する」という思いもありながら。

本当は誰だって、苦しみと憎悪まみれの人間の感情など受け取りたくない。それが自分のものに見えたなら尚更、こんな風でありたくない、という感情が湧く。

記事のコメントは、書いてあることが本当なら何故そんな思いをしながら幾度も親と関わりを持とうとするのか?という疑問と苛立ちで埋め尽くされていた。

本音を言えば、私も同じように読んでいてイライラした。繰り返し、繰り返し、自分から振り回されに行くよう親の元へ走る娘。その度に更なる嫌がらせや虐待を受け、吐き出す苦しみの元を増やしていた。

けれども、わたしにはわかる。それが何故なのか。

優しく、「人を愛すること」に悩みながらも、真摯に向き合って愛してくれた親御さんのいらっしゃる方には、理解することはきっと難しいだろうと思う。

そうではなかった親と、その元で育てられた子供の親子関係は、その虐待やネグレクト、言葉の暴力、精神的支配、人格の否定。そういった関係そのものが、本人たちにとっての「愛情のやりとり」なのです。

一見、悪人ではない普通の家庭で、貧しくも、暴力も特段無くても、何らかの方法で支配し、コントロールすることを愛だと勘違いしている親の元で育てば、そのやりとりそのものが、子供にとって唯一の、親とのたったひとつの繋がりになるのです。

とても悲しいな、と思う。

以前人に「無償の愛とは親が持つものではない、子供が親に向けるものこそ、無償なのだ。」と聞いたことがある。

なるほど、と納得した。その後、自らも子を産んで、もっとはっきり腹に落ちた。

子供は、無心で只々、親を愛している。親がどんな人間だろうと。たとえ自分を殴り、蔑み、自分の欲や欠落を埋めるために如何なる利己的な考えで自分を利用しようとも。

繰り返される苦しみや痛みの末、その愛が憎しみに変わろうとも、子は親を愛している。欲する、と言った方が良いか。愛の反対は憎しみではない。無関心だから。

ひとつだけ、以前のわたしと同様に苦しむ人に心の底から伝えたい。

あなたを信じて、と。

あなたはあなたの親ではない。血を引き継ぎ、苦しめられた記憶しか残っていなくても、あなたとその親は別人である。

あなたはあなたであり、今こうして数多の苦しみを越えて、今日も生きている。

その自分を褒めてあげましょう。どんな人間があなたを否定したとしても、今日もあなたは生きている。それだけで、なんと強く、素晴らしいことか。

自分を信じる。自分を大事にする。自分を愛し、味方でいる。

親があなたを愛してくれなくても良い。

そっと、もしくは死にものぐるいで必死に、だとしても、離れて良いのです。

いつかもっとあなたが親のことを、他の友人や知人を見るように、ああ彼らも生きているな、という程度に良い意味で無関心でいられる、その時まで。

その時が一生来なくたって、別にいい。

たったひとり、あなたの幸せを心から願い、あなたの明日を信じ、あなたの強さを褒めてあげられる、あなたがここに居る。

それだけで、いつか必ず乗り越えられるよ。

あなたの報われなかった愛情を、あなた自身が慈しめる時が来る。

少なくともわたしは、今もここにこうして生きて、そしてとても幸せです。

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