自分を知って生きる

自分の輪郭を浮き上がらせて、自分をしっかり見て、自分自身を知るということはものすごく難しい。

よく、人の相談には乗れるけれど自分の事はわからない、という話を聞くけれど、それはやはり、自分でなければ「こんな風でありたい」「こう見られたい」という欲なしに、ありのままの姿を受け取められるからだろう。だから、共依存関係などで相手のことを良く見たい、と思っている人間の目にはその人間のありのままの姿は映らない。大抵、大勢の女友達に「そんな男はやめておけ」と大合唱されても、彼女だけは良い所もあると庇い続けるものだ。そして彼女はやっぱり幸せそうには見えない。

今日、モーニングノートを書いていて、気づかぬ間に深く自分の中に入って行った。長年抱える悩みを文字に書き出しながら、(誰にも相談しないから、素直な心を表せる)気付くと幼い自分がそこに居て、彼女を斜め上の角度から見下ろしていた。

彼女は泣いていた。誰からも愛されず寂しかった。ずっと無視されて悲しかった。口を開くと全て否定され、心は満たされず傷つき続けていた。

わたしは昔、母や祖母に気に入られたくて、彼女らの代わりに誰かの悪口を言った。悪口を言いたくて仕方ないけれど、口に出すと自分が悪者になる、言いたいけれど、言いたくない…。彼女らがそんな顔をしている時は、代わりに大きな声で母や祖母の思っていることを言ってやった。

その度に、彼女らは「そんなことは言ってはいけません!!」と私を叱るのだが、わたしはちゃんとわかっていた。わたしが悪口を言う度に、わたしを彼女らが叱る度に、彼女らの口の端が嬉しそうにほころぶのを。お母さんやおばあちゃんが喜んでくれて、役に立てて、嬉しい、そう思っていた。

そんな風にして、わたしは家族の中で必要とされるために進んでスケープゴートになった。

家の中に悪者が一人居れば、その家庭はうまく治まるものだ。母や祖母の本当の敵はおそらく彼女らの伴侶や、その他多くの他の大人達だったであろうが、わたしは家族の手に負えない悪役をうまく演った。家族のみんなが、わたしという敵を持って、ある部分でストレスを緩和し、ある部分で団結した。

けれど、そんな生活は幼い自分にとってはストレスにまみれていたのだと思う。寂しく、悲しく、味方は誰もいない。家族が私を悪く言うのは、正しいことだから誰も何も疑問を感じなくて良い。

そうして、わたしは少しづつ壊れていった。心はいつも虚無だった。

人はそうして、心のがらんどうを埋めるために何かにすがるのだ。そうしてしか、生きる術を持たない。わたしもそうして、生きていた。

だから、わたしは赦す。ずっと他のみんなみたいにうまく出来ないことを。そして、小さな頃から続く悩みを、大人になってある程度は解決できたと思い込んでいたけれど、それが思い違いであったことを知った。

自分の今の悩みは、過去の過ぎ去った自分と地続きなのだ。おそらく、みんなそうなんだろうと思う。

根本的な解決を図って、心の寂しさや虚しさを昔のように感じることは今はないけれど、でもわたしはあの過去を持っている。今も。人の心は面白いもので、過去の思いの残像をずっと背中におんぶしている。

そんな思い出したくない過去も、わたしにとっては自分を形作る大事な思い出のひとつなのだろう。どうやったらこの癖がなくなるのか、どうしたら他のみんなみたいにうまく出来るようになるのか、そんな風にずっと考えていたけれど、三つ子の魂百までじゃないが、生きる為に幼い頃に自分に根を張った何かを、力任せに引っこ抜くことなど出来はしないのだ。

だから、治そうとしなくて良い。

そんなことをしたら、根っこの周りに出来上がった組織がぶっ壊れてしまう。それなしには生きられなかった過去があるなら、自分が「そこは治せない」と理解した上で今を健やかに生きる工夫をしなければならない。

窃盗癖は治らないそうだ。だから生涯、お店には近づかないようにする必要があるという。薬物の治療もそうだ。生涯、薬が手に入らない環境を作るしかないと。

わたしは人生の第2シーズン目を生きているけれど、生まれ変わって人が変わったわけじゃないから、昔からうまく出来ないことは、やっぱり出来ない。

小さな私と会ったことで、ひとつを知って楽になった。「出来るようにならなければならない」とは思わなくて良いのだ。

出来ないことを抱えていても、楽しく、幸せに生きることは出来る。「出来ない自分を責める」か、「出来ない自分から目を伏せる」ことをしなくても。

「ああ、出来ないんだな。これからも出来るようにはならないんだな。」と自分を理解したことで、出来ない自分がどうしたらそのことで困らないように生きられるか、より安心して健やかに生きられるか、工夫すれば良いだけなのだと理解出来た。なんだか、助かった。

感情は要らない。どんな風でありたいか、という欲望も要らない。

ただ今生に生を受けて、この肉体と魂を持って生きている、わたしという人間をどう使って最期の時まで完走するか。それまでに、生まれる時に持ってきたカリキュラムをどう一生懸命やり切れるか。

そう思うと、また生きることが楽しみで胸がわくわくする。

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